think gardenは「考える」環境をつくる活動体です。
「考える」の中には、「思いやる」「想像する」「共感する」なども
含まれているのですが、つくづくこれらを必要としなくても
“生きていける”時代になってきたな、と感じることがあります。
最近『クララとお日さま』を読みました。
(刊行から数年経っているので「今ごろ読んだの?」と言われそうですが)
AIをテーマにした文学作品は昔から多くありますが
カズオ・イシグロ氏の『クララとお日さま』に関しては
そう遠くない将来、本当にこのような現実が起こりそうと
感じるには十分にリアルで、そして複雑な物語でした。
もともとカズオ・イシグロ氏の小説は、その主人公の特性から
静かで抑えられた文体(表現)であることが多いですが
今回もまた、語り手である主人公クララがAIであることから
目の前で起こる出来事の全てに対して事細かに、均質に、
そして静かにクララの一人称で語られていました。
だから余計に物語の持つ残酷さが際立ってしまうのでしょう。
私がこの本で興味深かったのは、AIが将来的に身につけるであろう、
情緒的な能力(性能というのか)の緻密さというより、
それとは裏腹に、本来人間が備えているであろう
思いやりや想像力、共感力などがいつしかAIの持つ
特性として逆転していく様子でした。
それらは確実に、人間を人間たらしめている
要素だったのではないでしょうか。
主人公のクララは観察力と学習能力に優れており
それゆえ丁寧に、注意深く、目の前で起こる
出来事に対して最善の対応を考えます。
相手が何を求めているか、何をやってあげたら喜ぶか、
そして自分は何をすべきかを必死に見つけようとします。
一方、人間はどうか。
物語の中では「向上処置」と呼ばれる、何やら不穏な
医療処置を施された人間のみが将来を約束されるという
世界が展開されています。
向上処置がどのようなもので、それによって人間が何を
獲得しているのかはわかりませんが、少なくとも
向上処置を受けた人間は、明らかに……
……何かが欠落しているんですよね。
そういえば、昔読んだ本の中で、とある著名な人類学者が
以下のようなことを言っていました。
「凶悪犯罪や猟奇犯罪を犯すような人には、凶暴性や異常性など、
誰の目からもわかる目立った過剰な何かがあったわけではない。
むしろ、何かが欠落していたんだ」と。
なるほど、何かがあるのではなく、「ない」がゆえに、
犯罪を犯してしまう。
では一体、「ない」ものとは何か。
それはおそらく学習やトレーニングによって身に付く
常識や良識、高尚な倫理観や精神性などではなく
思いやりや想像力、共感力など、相手の心に
自分の心を重ねるという、極めてシンプルな
人間としての情緒的な能力なのではないでしょうか。
クララのオーナーであるジョジーという少女は
おそらく本能的に向上処置に抗い、処置を受けた後は
徐々に体が衰弱していきました。
しかし、やがて彼女の体は向上処置を受け入れ
体調が回復した頃には、彼女の中から明らかに
何かが欠落していました。
かつてジョジーにとって身近だった人たちに対して、
どこか他人事のように振る舞う彼女の様子を見ると
向上処置と言いつつも、究極的には人間を退化させて
いるようにしか思えませんでした。
そう遠くない将来、人間から“何か”が失われていき、
代わりに高度に発達したAIが情緒的な関わりをするようになる。
そのような未来が物語の中だけであることを切に願います。
